現地を97年に訪問

(訪問団の報告集より)

「百聞は一見にしかず」ということで、97年7月27日から8月1日まで総勢17名でディエンビェン小学校を訪問しました。
ディエンビェン小学校には7月29日に訪問しました。門から子どもたち小学4年生の男女児童が正装で出迎えてくれました。
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校門を入った所で後方に校舎が見える
まずはこの子ども達を見てください。
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年に数回の正装で迎えてくれ、この素晴らしい笑顔です。
教室の風景ですが、さすがに耐用年数が越えているため壁もひどい状態です。
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校長さんは女性でグエン・ティ・テとゆう方です。副校長は男性です。
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ここでこの「贈る会」の発端となった人物を紹介します。
元日本兵の父とベトナム女性とのあいだに生まれ、ベトナム版「大地の子」とマスコミにも紹介されているホン・ニャ・クアン(杉原一光)さんです。
彼は現在このディエンビエン区の区長をされておられます。
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校舎内での歓迎と交歓会
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日本側を代表して田丸団長から校長への贈り物
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アオザイで正装をした先生達
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校門でのお別れの記念写真
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訪問団の感想

子どもたちのその眼は蒼く清く澄んで眩しさを感じるほどであった。
学校施設は傷み運動場さえなく、教室の外壁コンクリートはこぼれ落ち黒板はコンクリートを塗りたくったもので、教室は少なく(生徒数千六百人に対し十七室)教室内は暗くて狭いにも関わらず、四十五人学級、朝・昼・午後の三交代授業していると聞き、驚きの連続。

戦後二十二年を経た今日(ベトナム戦争のこと)あの忌まわしい戦争の傷跡を引きずった厳しさ・苦しさが、何の苦労もせず好き勝手に自由奔放に生きている私たちの生活からは想像もできない。私にできる限りの小学校建設に努力を傾注することを自ら誓う。
あの純真な愛らしい子たちの素振り・瞳は私の脳裏から離れない。
(タインホア市を訪問して・・関口喜代志氏)



阪神大震災の後、学校に集まった先生と生徒は、上からの何の指示も受けず自分たちで必要なことは何かを考え動いたらしい。子どもたちは必要なことを見つけてとてもよく働いたし勉強も頑張ったそうだ。「学びたい生徒がいて、教えたい教師がいる・・それが学校」とその時の先生の言葉を思い出した。十分な施設がなく、勉強が十分にできない子どもたち。遠すぎて通えない子どもたち、家の経済を支えるために学校に行けない子どもたち。
学びたい生徒が居るのに条件が十分でないベトナム、学校と塾のダブルスクールに通い、子どもが一日中勉強につかっている日本。子どもにとって意欲的に勉強できる条件には程遠い。しかしこのディエンビエン小学校では、教室がもう少し良くなることが大切だと云うことだけは私にもよくわかる。ほんの少しのお手伝いしかできないけど、きっと子どもたちも新しくできた教室を見て喜ぶに違いないと思った。
(タインホアの旅・・有田晴代氏)


小学校の訪問を終えた夜、クアンさん夫婦と弟さんがそれぞれのお子さんを連れておいでになった。
開口一番「スギハラカズアキデス」と自己紹介されたことが耳から離れません。
お子さんたち(つまり杉原剛氏のお孫さん)も、長女はハナコ(22才
大学生)次女はタマコ(中4)中学2年生の長男はアズマと日本名で紹介なさいました。
クアンさんの奥さんは日本風の顔立ちでサンというお名前、お父さんも
抗仏戦争後、日本に帰られた方。昨年父娘の再会もかなわぬままお父さんが亡くなられたました。せめて墓参りに日本に行きたい。そのために
力を貸してほしいとのこと。(ベトナムではまだパスポートは簡単ではありません)。
第2次大戦から半世紀以上、様々な人生が有りました。直接間接、戦争は人々に個人ではどうにもできない重荷を背負わせました。そろそろ、何らかの決着をつけなければならない時が来ていると思います。
もしそれが未来への新しい出発になれば!!小学校を贈る運動が、その1つに役立つならば・・・そう痛感したタインホアの夜でした。
(タインホアの夜に・・団長・田丸信堯氏)


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