2008年末に訪問した感想です。
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故有田さんを偲び、ディエンビエンⅡ小学校などの訪問を終えて
ディエンビエンⅡ小学校の改築支援以来11年目。中心的に交流を進めてこられた有田副理事長の急逝により、危ぶまれたタインホア訪問の旅は、教職関係者5名と常任理事の私山本の6名で、12月25日から31日まで行ってきました。
小学校の教室今回は、初日に、HANOI国家大学付属人文社会科学大学の日本語科のクラスでのデモンストレーション(あえてこう言わせて貰います)が加わりました。内容は、城本さんによる「ふるさと」と「北国の春」の歌唱指導と、折り紙の指導でした。間を持って頂いたのは府連でもなじみの深いGIANG先生(元奈良女子大学留学生)。和やかな授業と言うより交流会でした。学生さんは皆さん綺麗な日本語を話されていました。歌も何とか覚えていただけたようでした。しかし、いただいたカリキュラムの中に、「Jポップス」があるのに驚きました。現在、関西大学に留学されているTHUY、PHUONG、TRANGさんらはこのクラスの同級生と言う事でした。大学では日本映画祭が催されており、なじみの映画の上映がされていました。
2日目はハロン湾観光と水上人形劇。3日目はアンナン焼きの見学してからの移動日。
4日目はディエンビエンⅡ小学校を訪問。1000人を超える児童の朝礼に参加。歓迎の挨拶をうけました。城本団長の返礼の挨拶で、有田副理事長の訃報を報告しました。後、生徒たちに囲まれて、サイン攻めにあった方もおられて一時の人気者になりました。
5年生のクラスには、「重さの違い」。3年生には「折鶴」と「ぶんぶんゴマ」。1年生には「指編」を実習しました。ここでも通訳はGIANG先生(同時に2クラスしたときは旅行社のTHEさんが通訳)。いずれのクラスでも外国人である日本人の授業に神妙にかつ熱心に向かっていました。日本の授業ではこうは行くのかどうか。
5日目はディエンビエン中学校。例年この時期は試験中。あえて1クラス受け入れてくれたようです。ここでは、向井先生による「南極について」。中学生になるとかなり問答が出来ました。発言も活発で向井先生も充実した感じをもたれたのではないでしょうか。それにしても、このクラスでは、最初に日本語での生徒の挨拶があり、これまでの交流の実績が続いている事を実感させられました。
午後は岐路に着きましたが、時間をとって歴史博物館の入館も実現しました。
団長以下皆さん本当にご苦労様でした。40キロもあろうかと思う荷物を持ち込んで、準備は大変だった事と思います。また、授業の前日には打合わせやら資料の準備でゆっくり出来なかったと思います。しかし、中学生の日本語の挨拶が象徴するように継続こそ大事な交流だと思いました。めったに外国人がこないとしだとも聞きましたが、そんな所で日本の授業、文化の一端に子供たちが触れ合える事は大きな影響を与えると思います。
(文責:府連常任理事 山本作治郎)
ベトナム旅行の報告
“有田先生を偲ぶ”ベトナム旅行に行ってきました。広瀬先生からこの旅行について、書いて欲しいと言われたのでそうすることにしました。“類は友を呼ぶ”と言われますが、広瀬先生は有田先生ととてもよく似ていて、偉いなぁ~とか、他人のために良くしてあげはるなぁ~とか、賢いなぁ~とかよく思いました。ちなみに私に色々言いつけるところもそっくりです。
さて、一日目は、午後10時20分(日本時間で午前0時20分)に着いて、ホテルで寝るだけ。
二日目は、ハノイ人文・社会大学を訪問して、日本語学科の学生さんと交流。午後はハノイ平和村に行って、広瀬先生の夫やいろいろな人たちが集めた寄付を渡しました。私たちがそのときにしたのも合わせると19.700円でした。広瀬先生はカンパしてくれた人に渡すためにと、平和村の子どもたちがつくっているミサンガをたくさん買っておられました。夜、水上人形劇を見て、外に出るとブーさん(3年前、有田先生に誘われてベトナム旅行をしたときの通訳さん)がいました。すごく懐かしかったです。
三日目は、ハロン湾で、雨ザーザーでした。水墨画のようにボワ~としていました。そのうち、景色より売り子の人との商談に集中し、結構なんやかやとみんな買っていました。
四日目は、ハノイ市内観光より、バッチャン村に行きたいという私と広瀬先生の希望が通り、陶器を買いに行きました。前の旅行の時は、有田先生が私の選んだのを見て、「そんなんやめてベトナムらしいものを買い」といって選んでくれ、値段交渉までしてくれたのを思い出しました。宇治の中学校に転勤してからも、何かと相談したりしていたのが、この時がもうこれからは頼れないんだと思った瞬間でした。うまく選べなくても、うまく交渉できなくても自分でするしかない、と思い急須1個とお皿2枚と小鉢1個買いました。
全校集会の様子午後タインホアへ移動し、夕方ホテルに着きました。ホテルのロビーでは、タインホア市ディエンビエン区の区長さんのクアンさんが待っていてくださいました。有田先生が亡くなったことを広瀬先生が伝えられたら、初めて聞かされたことらしく涙を流しておられました。
五日目は、ディエンビエン小学校に午前7時20分に行きました。全校朝礼があり、子どもたちが太鼓で歓迎してくれました。広瀬先生が有田先生のことを全校生徒に話していました。私は横で有田先生の写真を貼った画用紙を子どもたちから見えるように持っていました。ジャンさん(ハノイ大学の先生で今回通訳のため同行されてます)は横で通訳してくれています。広瀬先生が、「みんなの様子を有田先生がお空から見ているよ」というと、何人かの子どもが空を見上げていたのが印象的でした。子どもたちの後におられる先生方で涙ぐんでおられる方もいました。その後、校長先生がかなり長い時間、有田先生のことを話されていたようです。ジャンさんに言われて、私は、また写真を持って、横に立っていました。全員起立で集会が終わりました。
その後、応接室のような部屋で、今までの訪問団の写真が飾ってあったのを見ました。有田先生も写っていました。クアンさんは、有田先生の写真を貼ったアルバムを「昨日の晩作りました。ご家族に渡して下さい。」と言って下さいました。この時も涙ぐんでおられました。写真はすべて丁寧にラミネートされていました。
その後、テイさん(元校長)も来られました。有田先生の訃報に涙しておられました。自分は有田先生から着物を贈ってもらい、有田先生にはアオザイを贈った。「天国では、着物を着て、アオザイを着た有田先生を探し、再会したい」と、言っておられました。
その夜の交流会では、クアンさんも中学校の校長先生も小学校の校長先生も「有田先生のご家族の方によろしくお伝え下さい。今度は、ご家族の方も是非ご一緒に」と、言われていました。
交流会の会場には、広瀬先生の案で、お通夜の会場に貼った写真を飾りました。交流会の最後に、写真についての大部分を広瀬先生が、三中での写真を私が説明し、日本での有田先生を知っていただきました。
六日目は、ディエンビエン中学校に行きました。午後ハノイに戻り、歴史博物館とスーパーマーケットに行き、午後11時50分発の飛行機に乗り、日本に帰って来ました。
ハノイでの最後の夕食の時、大谷さんという人も一緒で、校舎を建てるときの話をされていました。有田先生は「知り合いにカンパを募り、個人的にも相当な額を寄付された」とか言われていました。
(文責:元 男山第三中学校勤務 山本 素麻子)
【ベトナム旅行感想記】
2005年・2006年・2007年・2008年と12月になると私はベトナムのハノイ市とタインホア省のディエンビエン第2小学校・中学校に行っています。よく友達から「おまえはよくそんなに同じ所によく行くなあ」、「ベトナムにいい人でもいるんかあ」。少しバカにしたようにいわれます。しかし、昨年の、12月25日から31日までの7日間の、ベトナム社会主義共和国タインホア省ディエンビエン第2小学校と中学校への訪問は今までの旅行と少し違っていたのです。今回の学校訪問には参加した6人の方は「広瀬・向井・山本スマコ・置村・城本」の方たちと日本ベトナム友好協会友好協会大阪府連から山本サクジロウさんに参加していただきました。
バッチャン焼きベトナム旅行団としてはこの人数では負担が大きいからキャンセルにしようか?と考えたこともありました。今回は条件が変わったのです。長年一緒に参加していただいていた有田先生が一昨年はドクターストップで参加できなくて、昨年は団長としていける、8月31日の建国記念日で元気な有田先生を見て楽しみにしていたのです。しかし、不幸なことに9月16日にはかえらぬ人となってしまわれました。一昨年参加された広瀬先生と城本は二人でもいって、ディエンビエン小学校と中学校の方たちと越日友好協会の人たちにも有田晴代先生が死去されたことを伝えなければならないと考えていたからです。だから、今回の旅行団は今までとは少し違っていたのです。そのことの説明をなしで参加された置村先生には申し訳なく思っています。ごめんなさい。心もとない団長でしたが、みなさんの協力で無事に帰国でき、心から喜んでいます。ありがとうございました。有田先生の意思を継いで、これからもディエンビエン小学校と中学校との交流がますます発展するように願っています。よろしくね。
(文責:常任理事 城本洋三)
ベトナム旅行
有田先生を偲ぶベトナム旅行の案内をもらったので、参加することにしました。前回、有田先生と行ったのが良かったので、また行くことにしました。前回の旅行で良かったと思ったのは、ベトナムの街並み・人々の暮らしです。何故か、郷愁をさそう、あたかも遺伝子のDNAが記憶している風景がそこにあるように感じました。それとフォーをはじめとするおいしい食べ物です。有田先生は、もうすぐこういう景色も見られなくなると以前言われていました。ベトナムも景観の保存を考えるべきだと思います。
さて、結局実際に行くのは6人だけ、それも女性は私とH先生だけとわかり、ちょっと考えました。しかも後の4人は知らない人ばかり、H先生は「止めてもええよ。私は一人でも行くから。有田先生も無理をするのが、一番良くないと言わはると思うよ。値段も高くなったし、」と言われました。また、有田先生が4月頃から企画されていた旅行とも聞き、行くことにしました。
事前の打ち合わせが、京橋の喫茶店でありました。その時、商店街で歳末の福引があり、私がみんなで支払ったレシートでガラガラを回すと何と2等で5000円の食事券が当たりました。「幸先の良い旅行」とも言えるし、「これで運を使い果たしたとも言えるなぁ」等と言い合っていました。
さて、一日目は、夕方日本を出発しているので、ホテルで寝るだけ。
二日目は、ハノイ大学へ行って、平和村へ行って、シクロに乗って、水上人形劇を見ました。シクロの運転手さんはこれで生計を立てているのでチップに2万ドンと通訳兼添乗員さんが言ったのに、運転手さんに「フォー」とか言われ、財布を見たら、5万ドン札しかなくおつりをくれるのかと思って渡したらそのままだった。日本円で250円。H先生に聞くとそんなことなかったらしい。そのあと、写真を撮って売る女の子から写真を押し売りされて、またしても通訳兼添乗員さんに「一日一膳」と言われて、2万ドン。日本円で100円。何て所だ。ところで、通訳兼添乗員さんは四字熟語をよく使う人でした。
三日目は、雨ザーザーのハロン湾。ここで、忘れてならないのは、山本作治郎さんの人命救助。前の大柄の男の人が雨で濡れた苔にすべって、船から道に上がる階段で海に落ちるところを小柄なのに微妙なバランスで抱え込んで救われました。私はこの階段は恐ろしいと分かったので、とても注意して上がりました。その夜、居酒屋のような所で前の旅行の時の通訳のブーさんと彼女、すずめやどんどんさん、同じ旅行会社の通訳さんと私たちでドンチャンしてました。普通のツアーではない体験です。飲み代一人10万ドン。日本円で500円。ベトナムでは、1ヶ月2~3万円で暮らせるそうです。
四日目は、バッチャン焼きを見学して買って、その後はタインホアへの移動です。私たち6人が乗っている車ですが、山本さんと城本さんの絶妙の会話が聞けて、本当に楽しい時間でした。さて、この移動の時、もう一人の通訳」さんと話していたのだけれども「ベトナムは社会主義国ではなく、日本こそ社会主義国だ」というお話しでした。何故か、というと「日本は平等だ。ベトナムの田舎はかわいそうなくらい貧しい。衛生環境も悪い。それに、採用や入学に際してこねやお金が幅をきかせている。反政府的なことを言うと捕まる。」私は本当に驚きました。日本は資本主義社会で、労働者は「働けど、働けど・・・・・・」だと思ってました。しかし、言われてみると、日本はどんな田舎でも、ガス・電気・電話・電波は通っているし、衛生状態も良い。」どちらかというと、「除菌除菌」と言い過ぎなくらい。それに、大分の教員採用試験のように不正は、ばれると許されない。総理大臣の悪口はみんな公然と言ってる。やっぱり、社会主義は、高度に発達した生産力を持つ国しか無理なのかなぁと思ってしましました。でも、当たり前ですが日本はまだ社会主義国ではありません。何故なら、難しいことは分かりませんが、搾取があるからだと思います。
中学校の教室 五日目はタインホアの小学校です。全校集会があり、校長先生とH先生が有田先生のことを子どもたちにしっかり話されていました。もちろん、H先生は通訳つきです。私は、前で有田先生の写真を貼った画用紙を子どもたちから見えるように持っていました。来て良かったと思いました。
六日目はタインホアの中学校です。午後、博物館へ行って、その後スーパーでお買い物です。添乗員兼通訳さん曰く「スーパーは、値段がはっきりしていて買い物は安心だ」そうです。確かにそうでした。お金のことをごちゃごちゃ書いてますが、実はもう一つよく分かってません。スーパーでおみやげのお菓子を買って、お金を払ったのだけどおつりがあったらしくて、守衛さんのような人が走ってきて教えてくれ、レジの人から受け取りました。ベトナムも色々だなぁと思いました。
七日目の朝、六時頃日本に帰ってきました。
今回の旅行で、三年前の旅行と比べて、子どもたちは明らかに都会化が進んでるなぁと思いました。又、太平洋戦争の時、日本がベトナムの人を200万人も餓死させていることを知りました。何てことをしたのだろうと思いました。また、通訳兼添乗員さんがベトナムも原子力発電をするようにならないといけないと言われるのを聞き、唯一の被爆国日本は、放射能の恐ろしさをもっとちゃんと世界に伝えないといけないと思いました。 おしまい